幸福(well-being)という概念に着目し始めて、3年目になる。「住まいの幸福」について、幸福概念を基に分析してみたりと、少しずつ成果も出始めてきた。研究上の幸福概念の理解と、現状の実証的事実のキャッチアップがようやく落ち着いてきて、最近、より根本的な問題である幸福の理論的な研究に興味が湧いてきた。
幸福度の理論には、セリグマンのウェルビーイング理論(PERMAモデル)のような記述的な理論と、セット・ポイント理論や比較理論のような少し抽象度の高い理論との、二つのタイプのものがある。PERMAモデルは、幸福を「ポジティブな感情(喜びを感じること)」「エンゲージメント(没頭すること、フロー)」「良い人間関係」「人生の意味」「達成」の5つの要素から成るものとして記述していて、これらの要素が満たされるほど人は持続的に幸福で居られる事を予測する。セット・ポイント理論は、個々人の幸福度は出来事によって変動はするものの、長期的には変わらないものだとする幸福の理論。実際、宝くじが当たった人の幸福度は、比較的すぐに元の水準に戻ってしまうものであるらしい。比較理論は、幸福を他者や自身の願望との比較の問題であると捉える理論。カール・マルクスが比較理論的な考えを抱いていた事実は有名だ。
「私達の望みや喜びの起源は社会的なものだ。私達はそれらを社会的な比較で測っており、私達を満足させる客観的な物との関連で測るわけではない。それら(望みや喜び)は社会的な代物であり、相対的なものだ」(『賃労働と資本』)
幸福のこれら理論は、幸福度の実証的事実に基づき提唱されたり、検証されたりしているが、幸福という現象の本質的な理解という関心からすれば、僕は後者の要素記述的でないタイプの理論により強い関心がある。ただし、既存の理論はいずれも哲学的にトリビアルであると思うし、幸福という豊かな現象の全貌を捉えられているとは思わない。幸福という概念を矮小化することなく、幸福度に関する実証的事実が自然と包括されるような、幸福現象に通底する理論(グランドセオリー)はあり得るのだろうか?
そうした関心で、日頃からお世話になってるポジティブ心理学の先生に、イースタリン・パラドックスを先生はどう解釈されてますか?と、質問してみた。イースタリン・パラドックスとは、一国の幸福度を時系列でみた場合に、客観的な国の状態の変化に関わらず幸福度が極めて安定した状態を維持する幸福度現象のことを指す。日本でも、高度経済成長期には一人当たりのGDPが数倍に増えたにも関らず、国の平均的な幸福度には殆ど変化が生じていない。先生はすると、そんな大問題を投げかけられても困りますと仰られて、「心理学者の対象は個々の心理的経験であって、心理学にグラウンドセオリーはないのです」と諭されてしまった。「心理学にグラウンドセオリーはない」、名言である。
心理学にグラウンドセオリーは存在しない。でも、心理学者の中にも、グラウンドセオリー的なものに関心を寄せる人はいますよね?と先生に聞くと、もちろんいますよ、との返事。僕は関心あるんですよね、、と言うと、貴方が心理学の学会に参加する際には、心理学でもグランドセオリーを目指さなくちゃダメじゃないかと、ぜひ言ってやってみて下さいと、冗談半分で応援して貰った。
幸福という現象になら、僕はあり得る気がするんだよな、グランドセオリー的なもの。幸福が、何よりも定義を拒絶しているかのような概念であるからこそ。「生存」と「生殖」が詰まるところは全てである、といった進化心理学的な解釈とは異質な形の理解が。もし、幸福にそうしたグランドセオリー的な理論があるとすれば、それは「生命とは何か」とか、「意識の存在理由」とか、そうした哲学的な問題に深く根差したものであるに違いないだろうと思う。幸福にとって重要な要素は、これとこれです、みたいなものではなくて、一人一人の問題だけれど、誰しもの指針になり得るようなセオリー。
バートランド・ラッセルは『幸福論(The Conquest of Happiness)』の最後に、「生命の流れと深く本能的に結合しているところに、最も大きな歓喜が見いだされるのである」と書いている。僕はこの幸福観に強く共感する。
学者として、今一番に関心がある問題。実証的なデータと、自身の経験に照らしながら、考え続けていきたい。ヒントは掴んでいるつもり。
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