繰り返すけど、将来を予め見据えて点と点を結びつける事は出来ない。可能であるのは、後からそれらを繋ぎ合わせることだけだ。だから、僕等は経験というものは未来の何処かで実を結ぶと信じる必要がある。宿命、運命、人生、カルマ、何であれ、僕等はその事を信じなくちゃならない。僕はこのやり方で一度も後悔したことはないし、僕の人生における前進の全部がそうした態度のおかげだと思っている。
冒頭で引用した、スティーブ・ジョブズがスタンフォード大学の卒業式で行った有名なスピーチがある。そのスピーチの中で彼は「点と点を繋ぐこと」の重要性について述べている。ジョブズは人生でやりたい事を模索する中で、大学を止める決断をした。卒業に必要な科目を履修する必要が無くなったため、彼は純粋な興味から大学の講義に潜る。その際に出会ったものの一つがカリグラフィー(西洋や中東で発達してきた文字を美しく見せる技術)であった。当時、何か直接的な目的があってその講義を受けたわけではなく、単に好奇心と直観に従っての事であった言う。しかし、その事が後に彼がパーソナル・コンピュータであるマックを世に送り出す際、これに美しいフォントを搭載させる事に繋がった。もし彼が、大学を止めてカリグラフィーの講義を受けていなかったなら、美しいフォントを備えたコンピュータが誕生したのはずっと後の事であったに違いない。経験というものは、未来のどこかで人生に繋がるものだ。ある経験の意味は、後で振り返ってみる事でしか分からない。経験に対してそうした信念を持つことは、今・ここの経験を自分の直観を信じて選択するための力になると、若い世代に向けてメッセージを送っている。
「点と点を繋ぐこと」。創造という行為に情熱を捧げたジョブズのこのメッセージは、僕にとって人生の一つの指針であると共に、経験というものの本質を象徴する話であるとも思っている。哲学の話になるけど、「環境」も主体が不可欠であるという点では経験に外ならないものだから、環境工学者のこのブログでも書いて置きたいと思う。
経験とは何か、これは人類が問い続けてきた最も難しい問題であると言える。古代ギリシャの哲学者デモクリトスが、「表面上は色がある、表面上は甘味がある、表面上はにが味がある、しかし実のところ原子と空虚あるのみ」と表現した通り、目の前にある物、何でもよいが例えば林檎、これを科学的に理解するため要素へと分解していき、分子や原子の組成を明らかにしたとする。すると同時に、色や形や、或いは「リンゴ」の意味の経験は消えてしまう。現代の脳科学においても事情はさして変わらない。経験を生み出している脳を分析しても、ある経験に対応して活動する脳の部位を特定することは出来ても、経験それ自体の謎は残されたままだ。経験は、それが脳から生じる現象であるとの科学的信念と共に、現代の科学においては「意識」(consciousness)という言葉で呼ばれている。哲学者デイヴィッド・チャーマーズは、経験と脳活動の対応関係を特定していく尋常な科学的営みに対して(意識のイージー・プロブレム)、脳という物質塊から心的な経験が如何にして立ち現れるのかという問題を「意識のハード・プロブレム(意識の難問)」と呼んで区別した[2]。環境工学の文脈で言えば、「赤色とは波長700nmの光の経験である」という科学的言明からは抜け落ちてしまう問題が、意識のハード・プロブレムである。
意識とは何かという問いに対する、現代で最も主流であると言える立場に「機能主義」がある。例えば、消化が胃の機能であるように、機能主義の立場からすれば、意識は脳の機能に過ぎない。意識とは脳の働きの別名であって、それ以上でも以下のものでもない。現代では、人工知能(AI)の登場が、機能主義的な意識観の支えにもなっている。計算という機能を追い求めて、コンピュータという実体を分解してみたところで、計算が何であるかが分かるわけではない。脳を分解しても意識が見当たらないという事実は、これと同じ理屈だ。意識とは、計算がコンピュータの機能であるように、脳の機能に過ぎないものだと、コンピュータ機能主義ではそう考える。また、意識を機能であると見なすのであるならば、仮に計算機が僕等と同等な知的機能を発揮する事が出来たならば、その計算機には意識があると考えてよい事になる。また、機能主義をもっと突き詰めて考えるならば、現状の計算機にもその機能に見合うだけの何かしらの意識の萌芽は既にあると考えるべきだろう。チャーマーズは、サーモスタットにも萌芽的な意識がある可能性について論じている。
意識とは脳の機能の呼び名に過ぎないものであるのだろうか。意識と機能の関係を考える上で、「盲視」ほど示唆に富む症例は他にない。盲視は、その字が示す通り、盲目であるにもかからわず視覚が働いている状態であり、脳の視覚経験に関わる低次の領野が損傷した際などに稀に現れる症状であると言う。盲視の患者に、例えば、ある光の点を見せて、光の点がある方向を指し示してみて下さいとお願いをする。患者は、見えていないのだから不可能だと答える。それでも、適当でも良いからやってみて下さいとお願いすると、患者は統計的には有意な精度でもって光の点の方向を指し示す。光の点がある方向を正しく当てられている事実を患者に伝えると、患者自身は驚く。なにせ、本人には光の点を見ている経験は無いのだから。
盲視という症例に対する解釈は様々だが(例えば、デネット[3])、ジェイソン・ホルト[4]のようにこれを素直に解釈するのなら、盲視という症例の存在が示唆しているのは、視覚的経験がなくてもヒトは視覚的機能(動きの方向や形の判断など)を働かせ得るという事実だろう。視覚的機能と視覚的な経験それ自体(しばしば、クオリアと呼ばれる)は、単純には同義なものとして扱えないという事が分かる。
視覚的な経験(クオリア)を伴わなくてもヒトは多くの視覚的機能を果たしうるという事実が、盲視という症例を含めて、少しずつ明らかにされつつある。こうした事実は、翻って、現象的な意識(クオリア)がなければ出来ない事は何であるのかという問いを喚起するため、学者達の間で議論されている。『脳のなかの幽霊』の著者として有名なラマチャンドランは、色や形といった多様な感覚様相(モダリティ)同士を結び付けた上で判断を下すために不可欠となるものがクオリアなのではないかと論じている[5]。例えば、僕等はある物の形や、位置、または運動の向きなど、事象のそれぞれ個別の側面に対する判断はクオリアを欠いていても可能だが、「赤くて丸い物体が右向きに動いている」というような統一的な事象の判断にとってはクオリアを伴う意識(現象的な意識)が不可欠なのではないかというわけである。
経験を伴わなくては出来ない事とは何か、皆さんはどう考えるだろうか。僕自身は、経験を機能で定義しようとするこうした試みは、興味深いものだが、経験というものの本質を何処か捉える損ねている印象を受けている。少なくとも、経験を今この瞬間の刹那的な機能へと還元する試みに対しては、違和感がある。経験がなくては叶わないこと、日々の経験に対する最も素朴な感覚からすれば、それは想い出すという事なのではないのだろうか。
特定の認知的判断が無意識でも可能であるにせよ、意識的な経験を伴わない限り、それを後から想い出す事は出来ない。より機能的に表現すれば、時間的に遠く隔たった経験同士を結ぶこと、これだけは経験が無くては叶わない事であると思われる。ある経験の意味が、未来のある時点の何処かで初めて明らかとなる、人間にとっては自然なそうした過去との付き合い方を可能にしてくれているものこそ、経験なのではないのだろうか。
思うに、僕等にとっての経験がそうした在り方をしている理由は、人生というものの目的が予め定まってはいないという事実と密接な関係がある。もし、人生に予め定められた目的があるとしたら、おそらく意識といった現象は不要である。現代の人工知能(AI)が当にそうした働き方をする様に、目の前の情報を評価関数に沿うよう、ただ最適化していけば良いだけなのだから。外的に予め定められた目的のないまま、過去が記憶となって膨らんでゆき、時間的に隔たりのある経験同士が相互に影響を及ぼし合いながら、その意味が深まっていく。ジョブズが「点と点を繋ぐこと」と表現した、そうした創造的な過去との向き合い方が可能であるのは、僕等が経験という形式を生きているからなのではないか。
従って、人生のある経験を切り抜いてきて、これを刹那的な機能へと還元する試みにはおそらく無理がある。ある経験の意味は、人生全体を通じてしか定義し得ないものであるに違いないし、それら一繋がりの経験を機能的に表現し直してみたところで、特に意味がある置き換えであるとは思わない。機能主義とは、曰く言い難い質感を伴う僕等の経験に対する、歯切れの良い一つの観点以上のものではきっとない。
生きるとは、それ自体が機能には還元し難い創造的な営みである。ジョブズの「点と点を繋ぐこと」というメッセージは、経験というものの本質に根差した、創造という行為にとって不可欠な態度であるのだろうと思う。
◇参考文献
[1] Steve Jobs' 2005 Stanford Commencement Address (https://news.stanford.edu/2005/06/14/jobs-061505/)
[2] デイヴィッド・J・チャーマーズ『意識する心-脳と精神の根本理論を求めて』(白揚社, 林一訳, 2001)
[3] ダニエル・C・デネット『解明される意識』(青土社, 山口泰司訳, 1997)
[4] J. Holt "Blindsight and the Nature of Consciousnessin" (Broadview Press, 2003)
[5] V・S・ラマチャンドラン『脳のなかの幽霊、ふたたび』(角川文庫, 山下篤子訳, 2011)
スティーブ・ジョブズ(2005)
冒頭で引用した、スティーブ・ジョブズがスタンフォード大学の卒業式で行った有名なスピーチがある。そのスピーチの中で彼は「点と点を繋ぐこと」の重要性について述べている。ジョブズは人生でやりたい事を模索する中で、大学を止める決断をした。卒業に必要な科目を履修する必要が無くなったため、彼は純粋な興味から大学の講義に潜る。その際に出会ったものの一つがカリグラフィー(西洋や中東で発達してきた文字を美しく見せる技術)であった。当時、何か直接的な目的があってその講義を受けたわけではなく、単に好奇心と直観に従っての事であった言う。しかし、その事が後に彼がパーソナル・コンピュータであるマックを世に送り出す際、これに美しいフォントを搭載させる事に繋がった。もし彼が、大学を止めてカリグラフィーの講義を受けていなかったなら、美しいフォントを備えたコンピュータが誕生したのはずっと後の事であったに違いない。経験というものは、未来のどこかで人生に繋がるものだ。ある経験の意味は、後で振り返ってみる事でしか分からない。経験に対してそうした信念を持つことは、今・ここの経験を自分の直観を信じて選択するための力になると、若い世代に向けてメッセージを送っている。
「点と点を繋ぐこと」。創造という行為に情熱を捧げたジョブズのこのメッセージは、僕にとって人生の一つの指針であると共に、経験というものの本質を象徴する話であるとも思っている。哲学の話になるけど、「環境」も主体が不可欠であるという点では経験に外ならないものだから、環境工学者のこのブログでも書いて置きたいと思う。
経験とは何か、これは人類が問い続けてきた最も難しい問題であると言える。古代ギリシャの哲学者デモクリトスが、「表面上は色がある、表面上は甘味がある、表面上はにが味がある、しかし実のところ原子と空虚あるのみ」と表現した通り、目の前にある物、何でもよいが例えば林檎、これを科学的に理解するため要素へと分解していき、分子や原子の組成を明らかにしたとする。すると同時に、色や形や、或いは「リンゴ」の意味の経験は消えてしまう。現代の脳科学においても事情はさして変わらない。経験を生み出している脳を分析しても、ある経験に対応して活動する脳の部位を特定することは出来ても、経験それ自体の謎は残されたままだ。経験は、それが脳から生じる現象であるとの科学的信念と共に、現代の科学においては「意識」(consciousness)という言葉で呼ばれている。哲学者デイヴィッド・チャーマーズは、経験と脳活動の対応関係を特定していく尋常な科学的営みに対して(意識のイージー・プロブレム)、脳という物質塊から心的な経験が如何にして立ち現れるのかという問題を「意識のハード・プロブレム(意識の難問)」と呼んで区別した[2]。環境工学の文脈で言えば、「赤色とは波長700nmの光の経験である」という科学的言明からは抜け落ちてしまう問題が、意識のハード・プロブレムである。
意識とは何かという問いに対する、現代で最も主流であると言える立場に「機能主義」がある。例えば、消化が胃の機能であるように、機能主義の立場からすれば、意識は脳の機能に過ぎない。意識とは脳の働きの別名であって、それ以上でも以下のものでもない。現代では、人工知能(AI)の登場が、機能主義的な意識観の支えにもなっている。計算という機能を追い求めて、コンピュータという実体を分解してみたところで、計算が何であるかが分かるわけではない。脳を分解しても意識が見当たらないという事実は、これと同じ理屈だ。意識とは、計算がコンピュータの機能であるように、脳の機能に過ぎないものだと、コンピュータ機能主義ではそう考える。また、意識を機能であると見なすのであるならば、仮に計算機が僕等と同等な知的機能を発揮する事が出来たならば、その計算機には意識があると考えてよい事になる。また、機能主義をもっと突き詰めて考えるならば、現状の計算機にもその機能に見合うだけの何かしらの意識の萌芽は既にあると考えるべきだろう。チャーマーズは、サーモスタットにも萌芽的な意識がある可能性について論じている。
意識とは脳の機能の呼び名に過ぎないものであるのだろうか。意識と機能の関係を考える上で、「盲視」ほど示唆に富む症例は他にない。盲視は、その字が示す通り、盲目であるにもかからわず視覚が働いている状態であり、脳の視覚経験に関わる低次の領野が損傷した際などに稀に現れる症状であると言う。盲視の患者に、例えば、ある光の点を見せて、光の点がある方向を指し示してみて下さいとお願いをする。患者は、見えていないのだから不可能だと答える。それでも、適当でも良いからやってみて下さいとお願いすると、患者は統計的には有意な精度でもって光の点の方向を指し示す。光の点がある方向を正しく当てられている事実を患者に伝えると、患者自身は驚く。なにせ、本人には光の点を見ている経験は無いのだから。
盲視という症例に対する解釈は様々だが(例えば、デネット[3])、ジェイソン・ホルト[4]のようにこれを素直に解釈するのなら、盲視という症例の存在が示唆しているのは、視覚的経験がなくてもヒトは視覚的機能(動きの方向や形の判断など)を働かせ得るという事実だろう。視覚的機能と視覚的な経験それ自体(しばしば、クオリアと呼ばれる)は、単純には同義なものとして扱えないという事が分かる。
視覚的な経験(クオリア)を伴わなくてもヒトは多くの視覚的機能を果たしうるという事実が、盲視という症例を含めて、少しずつ明らかにされつつある。こうした事実は、翻って、現象的な意識(クオリア)がなければ出来ない事は何であるのかという問いを喚起するため、学者達の間で議論されている。『脳のなかの幽霊』の著者として有名なラマチャンドランは、色や形といった多様な感覚様相(モダリティ)同士を結び付けた上で判断を下すために不可欠となるものがクオリアなのではないかと論じている[5]。例えば、僕等はある物の形や、位置、または運動の向きなど、事象のそれぞれ個別の側面に対する判断はクオリアを欠いていても可能だが、「赤くて丸い物体が右向きに動いている」というような統一的な事象の判断にとってはクオリアを伴う意識(現象的な意識)が不可欠なのではないかというわけである。
経験を伴わなくては出来ない事とは何か、皆さんはどう考えるだろうか。僕自身は、経験を機能で定義しようとするこうした試みは、興味深いものだが、経験というものの本質を何処か捉える損ねている印象を受けている。少なくとも、経験を今この瞬間の刹那的な機能へと還元する試みに対しては、違和感がある。経験がなくては叶わないこと、日々の経験に対する最も素朴な感覚からすれば、それは想い出すという事なのではないのだろうか。
特定の認知的判断が無意識でも可能であるにせよ、意識的な経験を伴わない限り、それを後から想い出す事は出来ない。より機能的に表現すれば、時間的に遠く隔たった経験同士を結ぶこと、これだけは経験が無くては叶わない事であると思われる。ある経験の意味が、未来のある時点の何処かで初めて明らかとなる、人間にとっては自然なそうした過去との付き合い方を可能にしてくれているものこそ、経験なのではないのだろうか。
思うに、僕等にとっての経験がそうした在り方をしている理由は、人生というものの目的が予め定まってはいないという事実と密接な関係がある。もし、人生に予め定められた目的があるとしたら、おそらく意識といった現象は不要である。現代の人工知能(AI)が当にそうした働き方をする様に、目の前の情報を評価関数に沿うよう、ただ最適化していけば良いだけなのだから。外的に予め定められた目的のないまま、過去が記憶となって膨らんでゆき、時間的に隔たりのある経験同士が相互に影響を及ぼし合いながら、その意味が深まっていく。ジョブズが「点と点を繋ぐこと」と表現した、そうした創造的な過去との向き合い方が可能であるのは、僕等が経験という形式を生きているからなのではないか。
従って、人生のある経験を切り抜いてきて、これを刹那的な機能へと還元する試みにはおそらく無理がある。ある経験の意味は、人生全体を通じてしか定義し得ないものであるに違いないし、それら一繋がりの経験を機能的に表現し直してみたところで、特に意味がある置き換えであるとは思わない。機能主義とは、曰く言い難い質感を伴う僕等の経験に対する、歯切れの良い一つの観点以上のものではきっとない。
生きるとは、それ自体が機能には還元し難い創造的な営みである。ジョブズの「点と点を繋ぐこと」というメッセージは、経験というものの本質に根差した、創造という行為にとって不可欠な態度であるのだろうと思う。
◇参考文献
[1] Steve Jobs' 2005 Stanford Commencement Address (https://news.stanford.edu/2005/06/14/jobs-061505/)
[2] デイヴィッド・J・チャーマーズ『意識する心-脳と精神の根本理論を求めて』(白揚社, 林一訳, 2001)
[3] ダニエル・C・デネット『解明される意識』(青土社, 山口泰司訳, 1997)
[4] J. Holt "Blindsight and the Nature of Consciousnessin" (Broadview Press, 2003)
[5] V・S・ラマチャンドラン『脳のなかの幽霊、ふたたび』(角川文庫, 山下篤子訳, 2011)
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