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遠くを見るということ-人生の意味とフロー

 生命の歴史には「カンブリア爆発」と呼ばれる、生命の形態が爆発的に多様化した一時期があります。スティーヴン・ジェイ・グールドの『ワンダフル・ライフ』[1]で有名になったカンブリア爆発は、5億3000万年から5億4200万年前の間の出来事だそうで、この時期に、サンゴや貝類、三葉虫やアノマノカリスなど、複雑な体を持った動物たちが突如として地球上に現れる。こうした高度な多細胞生物の化石は、カンブリア紀以前の地層からは殆ど発見されないという。カンブリア爆発を引き起こした要因については、様々な仮説が提唱されていますが、近年、アンドリュー・パーカーという学者が「光スイッチ仮説」と彼が呼ぶ、カンブリア爆発が眼の誕生によって引き起こされたとする仮説を提唱しています。僕自身はパーカーの著作『眼の誕生-カンブリア紀大進化の謎を解く』[2]を読んで初めてこの仮説を知りましたが、とても刺激的でした。視覚を持たない動物たちにとって、生きることは文字通り暗中模索なものであるに違いありませんが、遠くにある餌を見る力を与えてくれる眼は、動物の生活様式をより能動的なものに変える。眼の誕生が動物の世界に光を灯し、生物界の生存競争のゲームの様相が一変し、急激な自然淘汰の圧力が生じた。それがカンブリア爆発の実態であり、眼の誕生は生命史におけるいわば夜明けであったのだとパーカーは言います。あまりに精巧な器官であるため、進化論の難題であるとダーウィンを悩ませた動物の眼[3]。フランシス・クリックも「カンブリア紀の生物大進化が、眼の誕生によって引き起こされたことは尤もらしい」とパーカーの仮説を支持しました。

 脊椎動物の形態の進化の系譜を眺めていると、動物にとって、遠くを見るということが如何に重要な問題であったかがよく分かります。水中を身体を横たわらせて泳ぐ魚類から、地上に進出した私たちの祖先は、両生類、爬虫類、そして哺乳類へと進化の階段を昇るにつれて、頭を地上から少しずつ持ち上げるかのように形態を進化させています。水平性から垂直性へ、そうした形態の変化の意義は、より遠くを見る為であるのでしょう。そうした進化の系譜の頂きに居るのが、大きな頭蓋を垂直な背骨で支えている私たちヒトです。動物にとって最も大切な瞬間は、食べたり触れたりといった身体と物とが直に触れ合う瞬間であるわけですから、その瞬間に先立って、遠くを見るとは殆ど未来を見るということに等しい。脊椎動物の形態の進化の過程は、遠くを見る(未来を見据える)ということが動物にとって本質的な課題であり続けてきた事実を教えてくれているように感じます。

 ただし、眼がもつ潜在力をきちんと活かすことは、難しい課題であるのでしょう。だからこそ動物は、眼と共に、豊かな中枢神経系・脳と運動器官を進化させてきたのだと思います。チャールズ・シェリントンは、眼などの遠距離受容器の獲得が脳の進化においては決定的に重要であったと言う[4]。遠くを見るとは、機能的には選択肢を増やすという事ですが、選択肢の多さは必ずしも嬉しい事ばかりではない。誰もが日頃から感じている事であるかと思います。シーナ・アイエンガーの『選択の科学』によると、お店に並べる品物は、数が多いよりも適度に少ない方が売り上げは伸びるのだそうです[5]。遠くを見る力は、動物にとってこれと釣り合う判断力が伴わない限り、無価値であるばかりでなく行動の遅延を引き起こす有害なものにすらなり得る。私達の人生で生じる悩みや葛藤も、私達の遠くを見る力ゆえのものであるのだと思います。

 私達の幸福にとって重要な経験の一つにフロー(flow)があります。フローとは、目の前の課題や活動に高い強度で没頭している際に生じる経験です。芸術家の創作活動時や、アスリートが高いパフォーマンスを発揮している際の経験について調査したところ、時間的経過の感覚が歪み、なめらかに事が流れていくような感覚があるとの報告が数多くなされた事から、心理学者チクセントミハイがこうした心理状態をフローと名付けました[6]。絵を描いたりゲームをしたりといった自分が好きな事をしている時、或るは、仕事に没頭している時などに経験される状態がフローです。フローを経験している最中は、不安などのネガティブな感情が減り、身体がリラックした状態となり、また、人生で頻繁にフローを経験している人ほど、幸福度が高い事が分っています。目の前の「今・ここ」の経験に没頭している状態は、幸福の一つの形であるわけです。
 他方で、人生の意味を模索していて、目の前にある課題や活動に意義が見いだせなくなっている時、人はフローとは対極に位置する心理状態にあると言えます。人生の意味の感覚(日本語における「生き甲斐」[7])は、幸福にとって大切な要素です。にもかかわらず、人生の意味を探している人の幸福度は一般的に低い事実が繰り返し報告されています[8]。人生の意味は、微妙な、難しい問題であるわけです。フローが「今・ここ」への没頭であるに対して、意味の探求は「何処か遠くにあるもの」を目指している心の状態であると言えますが、人生の意味を掴むことは誰にとっても易しい事ではないのでしょう。

 古典的な心理学では、人生の意味のこの難しい問題について、エリクソンが「アイデンティティーの探究」の過程として理論化しています[9]。フロー経験に満ちた子供時代から、人は青年期において人生の意味(或いは自分)を探し始めますが、エリクソンが「青年の危機」と称したように、この過程にはしばしば苦しみが伴う。現代の幸福度の実証的研究からも、青年期は不安やストレスなどネガティブな感情が多い時期である事が分っていますが[10]、そうした不安が彼に人生の意味の探究を促す要因にもなっているのでしょう。アイデンティティーの危機と向き合い、これを乗り越えた人をエリクソンは成熟した大人であると考えました。また、そうした危機は、客観的な年齢で定義される青年期に限られたものではなく、いつ訪れるかは人それぞれであるようです。年齢と幸福の関係性については、以前に他の媒体『好・信・楽』でも書いてます。

 僕が思うに、その人が遠くを見ていればいるほど、人生の意味に関わる危機は深くなる。青年の問題で言えば、彼が自分の人生の意味なり価値の問題に真剣であればあるほど、理想と現実の乖離も大きくなるでしょうから、より大きな危機を経験しやすいように思います。それでも、人生の意味の問題と向き合って、答えを決断する事ができればそれは幸せな事だと思います。僕自身、たくさんの学者達が語るそうした思想に支えられてきました(例えば、小林秀雄さん[11])。また、フロー経験には善悪の区別がなく、無意味だと思っている活動でも人はフローを経験できますが、持続的で生産的なフロー経験にとっても人生の意味は大切であるように思います。実証的な研究でも[8]、人生に意味を求める人がそれを掴んだ際には人生の満足度はずっと高くなる事が確認されており、また、そうした人たちはその後も人生の意味を深め続けていくようです。自分をしっかりと確立した人にとっては、人生の意味の探求が幸福につながるわけですね。

 いつも遠くを見つめながら、だからこそ目の前の一つ一つの経験に没頭していられるような、そんな人生が送りたいものです。動物は眼を獲得して以来、ずっとそれ続けてきたのだと思います。

◇参考文献
[1] スティーブン・ジェイグールド『ワンダフル・ライフーバージェス頁岩と生物進化の物語』(早川書房, 渡辺政隆(訳), 2000)
[2] アンドリュー・パーカー『眼の誕生-カンブリア紀大進化の謎を解く』(草思社, 渡辺政隆(訳), 今西康子(訳), 2006)
[3] チャールズ・ダーウィン『種の起源(上)』(光文社, 渡辺政隆(訳), 2009)
[4] C.S. Sherrington (1906) The integrative action of the nervous system. Yale University Press.
[5] シーナ・アイエンガー『選択の科学』(文藝春秋, 櫻井祐子(訳), 2014)
[6] ミハイ・チクセントミハイ『フロー体験 喜びの現象学』(世界思想社, 今村浩明(訳),1996)
[7] 茂木健一郎『IKIGAI: 日本人だけの長く幸せな人生を送る秘訣』(新潮社, 恩蔵絢子(訳), 2018)
[8] M.F. Steger, S. Oishi & S. Kesebir (2011) Is a life without meaning satisfying? The moderating role of the search for meaning in satisfaction with life judgements. The Journal of Positive Psychology, 6(3), 173-180.
[9] 鑪幹八郎『アイデンティティの心理学』(講談社, 1990)
[10] A.A. Stone & J.E. Broderick (2010) A snapshot of the age distribution of psychological well-being in the United States. PNAS, 17(2), 9985-9990.
[11] 小林秀雄『人生について』(中央公論新社, 2019)

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